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関東地方環境事務所

アクティブ・レンジャー日記 [関東地区]

奥秩父主脈縦走路と避難小屋

2025年12月09日
奥多摩 山村源
秋が足早に通りすぎつつあり、次第に冬の気配が濃くなっていくのを感じます。
今年の秋は各地で紅葉が綺麗だったとの声が聞かれましたが、長い距離を歩いて山の景色を楽しんだ方も多かったのではないでしょうか。
今回は、秩父多摩甲斐国立公園の中でも屈指のロングルート、奥秩父主脈縦走路の一部分を巡視したときの様子をお伝えします。
 

●奥秩父縦走線巡視(雁坂峠から木賊山まで)

秩父多摩甲斐国立公園は、東は奥多摩の山々から西は瑞牆山までに至る広大な山域を含んでいますが、この山域の背骨ともいえる雲取山から金峰山までの奥秩父主稜線沿い(一部では稜線の下を巻いています)には登山ルートが通っています。
一般的には「奥秩父主脈縦走路」と呼ばれるこのルート、本国立公園の公園計画書においては雲取山から金峰山に至る区間が「奥秩父縦走線道路(歩道)事業」として計画されています。

概要・計画書_秩父多摩甲斐国立公園_環境省
令和7年11月7日(金)、埼玉県と合同で、奥秩父縦走線道路(歩道)のうち雁坂峠から木賊山までの区間を巡視しました。
前日は冷たい雨の中を川又から雁坂峠へ登りましたが、一転してこの日は素晴らしい天気に恵まれました。
 
(絶好の晴天の中を巡視できました)
(雁坂峠は日本三大峠の一つとして知られています)
日本三大峠の一つとして知られている雁坂峠から雁坂嶺に向かう稜線では、立ち枯れの木々と背景の青空が印象的です。
 
(立ち枯れの木々が青空に映えます)
雁坂嶺を過ぎると、木々の間から奥秩父主稜線の一部を垣間見ることができます。
また、東破風山に向かう稜線では所々に南側への景色が広がる好展望地も散在しています。
 
(長大な縦走路を垣間見ることができます)
(東破風山直下の好展望地)
西破風山の西側は岩場の急坂になっています。この日は霜が付いており滑りやすく、また秩父側からの強風にもさらされました。
木賊山と西破風山の間にある笹平には、破風山避難小屋が建っています。
 
(西破風山側から笹平を見下ろす)
(破風山避難小屋)
この避難小屋では事故に繋がりかねない利用の状況があるとの声を聞いたことがあります。
例えば「日没までに予定の山小屋まで到着できず避難しようとした人が、避難小屋の中で宴会をしている人たちから追い出された」といったものです。
避難小屋はあくまで一時難を避けるための避難施設であり、計画的な宿泊や独占利用は行わないでください。
食事や休憩等には利用できますが、緊急避難される方には場所をお譲りいただくようお願いします。
 
また、破風山避難小屋周辺を含む奥秩父主稜線沿いの多くの部分は、自然公園法に規定する特別保護地区に指定されています。特別保護地区内では樹木の伐採や損傷は勿論のこと、落枝・落ち葉の採取も許可なく行うことはできません。
行為の許可基準も学術研究など一部の目的に限られています。
小屋の周囲から倒木や枯れ枝、落枝を採取することは行わないでください。

立ち枯れや倒木が積み重なる景色も、未来に残すべき独特の風景です。いつまでもこの風景を楽しんでいただけるようご協力をお願いします。
 
縦走路に戻り、笹平から木賊山にかけては急登が続きますが、南側が開けた場所では絶景が広がり、振り返ると破風山から歩いてきた縦走路を見ることができます。
 
(木賊山への登り)
(好展望地からの眺め)
(西破風山を振り返る)
この日は戸渡尾根から西沢渓谷に下山しましたが、甲武信ヶ岳から国師ヶ岳、金峰山へと続くこのルート、まだまだ歩き続けることも可能です。
 

●近代登山初期の遭難事故

さて、近代登山の黎明期とも言える時代、この場所で大きな遭難事故があったことをご存じでしょうか。
大正5年7月下旬、東京帝大の学生を中心とした5人パーティーが雁坂峠から金峰山へ縦走する計画中、破風山中で道を失い、暴風雨に襲われ4人が亡くなる遭難事故が起こりました。
当時は大きく報じられたようで、深田久弥も著書『日本百名山』の中で以下のように触れています。

 私のおぼえている最初の山の遭難は、甲武信岳のそれであった。あの騒ぎは大きかった。何しろ田舎の少年にも大事件として伝わったのだから、当時の世間に与えたショックの大きさが察せられる。(中略) しかも五人の遭難者の四人が帝大(現東大)へ入ったばかりの前途有望な青年であったことが、一層騒ぎを大きくしたのだろう。一人だけが生き帰った。
 甲武信岳という名が私の頭に沁みついたのはそれ以来であった。あとになって知ったが、帝大生の遭難は甲武信岳ではなく、そこへ登る途中の破風山であった。密林中に道を失い、豪雨に叩かれて疲労死したのである。しかし、一般には「甲武信岳の遭難」と伝えられ、それは私の読んでいた少年雑誌にも大きく出た。


遭難の原因については天候不良の他色々な理由が挙げられていますが、塩山から雁坂峠へ登る予定を直接甲武信ヶ岳へ登ることに変更し、登路を誤り破風山へ登ったもののそこが木賊山と思い込み、豪雨の中道に迷って悲劇に繋がったとされています。
当時はあまり避難小屋や山頂標識が整備されていなかったものと考えられますが、現在においてもエスケープルートが遠い場所であることや、主稜線付近の山小屋は営業していない期間もあるため、万全の準備をして登山を楽しんでいただきたいと思います。
また、緊急時には誰もが安心して避難小屋を使用できるよう、重ねてご協力をお願いします。


参考文献
山崎安治『新稿 日本登山史』白水社(1986)
深田久弥『日本百名山 新装版』新潮社(1991)