
アクティブ・レンジャー日記 [関東地区]
春の西沢渓谷
2025年05月30日
奥多摩
近頃、レンジャー服を着て巡視をしていると登山者の方からお声がけいただくことが増えてきました。
中には「その服は雑誌で見ました」と言ってくださる方もいますが、皆様も国立公園内でレンジャー服を着た者を見かけたら、是非お気軽にお声がけいただければと思います。
なお、レンジャー服ってどんなもの? という方は、雑誌「PEAKS」2025年7月号に詳しく載っていますのでチェックしてみてください。国立公園の特集が組まれ、本事務所の仲山自然保護官のインタビューも載っています。
今回は、5月に実施した巡視の様子をお伝えします。
中には「その服は雑誌で見ました」と言ってくださる方もいますが、皆様も国立公園内でレンジャー服を着た者を見かけたら、是非お気軽にお声がけいただければと思います。
なお、レンジャー服ってどんなもの? という方は、雑誌「PEAKS」2025年7月号に詳しく載っていますのでチェックしてみてください。国立公園の特集が組まれ、本事務所の仲山自然保護官のインタビューも載っています。
今回は、5月に実施した巡視の様子をお伝えします。
●西沢渓谷巡視
令和7年5月15日(木)、西沢渓谷の巡視を行いました。
秩父多摩甲斐国立公園の魅力の一つに渓谷美がありますが、中でもどこの渓谷が美しいか? と聞くと西沢渓谷を挙げる方は多いのではないでしょうか。
奥秩父の山々の魅力を広く伝えた一人である田部重治も、その著書の中でこう述べています。
秩父の範囲で最も私たちを惹き付けたのは、鶏冠山の異様なる風姿とその麓にいやが上に深くくい込んでいる笛吹川の流域に立ち並ぶ、溶けて滴たりそうな落葉松や白樺の五月の色彩とであった。
(「笛吹川を溯る」より)
秩父多摩甲斐国立公園の魅力の一つに渓谷美がありますが、中でもどこの渓谷が美しいか? と聞くと西沢渓谷を挙げる方は多いのではないでしょうか。
奥秩父の山々の魅力を広く伝えた一人である田部重治も、その著書の中でこう述べています。
秩父の範囲で最も私たちを惹き付けたのは、鶏冠山の異様なる風姿とその麓にいやが上に深くくい込んでいる笛吹川の流域に立ち並ぶ、溶けて滴たりそうな落葉松や白樺の五月の色彩とであった。
(「笛吹川を溯る」より)
西沢渓谷の開発が始まったのは昭和37年と言われており、田部重治がここを旅した大正時代初期と現在では姿が変わってしまっているものもありますが、それでも山々の姿や森と渓谷の美しさなど、多くのものが今に伝わっています。
西沢渓谷入口から反時計回りで遊歩道を一周しました。
左岸側(下流を向いて左側)ではかなり水に近いところを歩きます。道が狭くすれ違いが難しい場所や、濡れて滑りやすくなっている箇所もありますので、歩きやすい登山靴やトレッキングシューズが必要です。
西沢渓谷入口から反時計回りで遊歩道を一周しました。
左岸側(下流を向いて左側)ではかなり水に近いところを歩きます。道が狭くすれ違いが難しい場所や、濡れて滑りやすくなっている箇所もありますので、歩きやすい登山靴やトレッキングシューズが必要です。
方杖橋を渡り、急な登山道を登っていくと七ツ釜五段の滝に到着します。日本の滝100選にも選ばれている西沢渓谷を代表する景勝地です。
水面の深い緑と白い滝を新緑の木々が包み込む、素晴らしい景色が広がっています。
水面の深い緑と白い滝を新緑の木々が包み込む、素晴らしい景色が広がっています。
また、この日はアズマシャクナゲがあちこちで見頃を迎えていました。
こちらも特徴的な姿が新緑の木々によく映えています。
こちらも特徴的な姿が新緑の木々によく映えています。
右岸側に渡るとかつて木材搬出に利用されたトロッコの跡が残っています。
道も広く歩きやすくなりますが、かなり高いところに道がついており足を踏み外すと滑落の恐れがありますのでご注意ください。
道も広く歩きやすくなりますが、かなり高いところに道がついており足を踏み外すと滑落の恐れがありますのでご注意ください。
さて、人里離れた山奥にこうした道を整備するのは気が遠くなるような作業ですが、どのように開発されたのでしょうか。
先に西沢渓谷の開発は昭和37年に始まったと触れましたが、当時の状況が『三富村誌』に記載されています。
西沢渓谷の開発を始めたのは昭和三七年である。動機は、本村の主要産業であった木炭や、繭価が暴落、販売不振となり、所得低迷を観光開発で補なおうという発想からだった。
(中略)
まず、人の歩ける道造りが先決であり、岩盤に上からロープでぶら下り、岩にノミで穴を掘り、鉄棒を差込んで木を渡し、橋を架けるのである。それだけに大自然の厳しさは、誰も想像できないものであった。
約二、五〇〇㍍の歩道を何とか造りあげた。まさに手作りの道である。途中諦めようとすることが何度かあったが、その度に初心に戻り再挑戦して、遂に完成させたが、「我ながらよくぞ頑張ったものだ」と、関係者は当時を回顧する。
先に西沢渓谷の開発は昭和37年に始まったと触れましたが、当時の状況が『三富村誌』に記載されています。
西沢渓谷の開発を始めたのは昭和三七年である。動機は、本村の主要産業であった木炭や、繭価が暴落、販売不振となり、所得低迷を観光開発で補なおうという発想からだった。
(中略)
まず、人の歩ける道造りが先決であり、岩盤に上からロープでぶら下り、岩にノミで穴を掘り、鉄棒を差込んで木を渡し、橋を架けるのである。それだけに大自然の厳しさは、誰も想像できないものであった。
約二、五〇〇㍍の歩道を何とか造りあげた。まさに手作りの道である。途中諦めようとすることが何度かあったが、その度に初心に戻り再挑戦して、遂に完成させたが、「我ながらよくぞ頑張ったものだ」と、関係者は当時を回顧する。
こうした断崖絶壁にロープでぶら下がって手作業で道をつくるといった、過去に信じ難い苦労で開発がなされ、現在気軽に渓谷歩きを楽しむことができるようになっています。
皆様も西沢渓谷にお出かけの際は、どうやってこの道を拓いたのか想像しながら歩いてみると、また新しい発見があるかもしれません。
参考文献
田部重治『新編山と渓谷』岩波書店(1993年)
山梨日日新聞社『三富村誌 下巻』三富村教育委員会(1996年)
皆様も西沢渓谷にお出かけの際は、どうやってこの道を拓いたのか想像しながら歩いてみると、また新しい発見があるかもしれません。
参考文献
田部重治『新編山と渓谷』岩波書店(1993年)
山梨日日新聞社『三富村誌 下巻』三富村教育委員会(1996年)